2010年7月3日土曜日

幸と不幸のはざ間で Part II

 前回、甲骨文字の解釈では、幸の本義は「手枷、足枷を示している。いわば古代社会で捕虜や奴隷をつなぎ止める一種の刑具であった」と説明した。そして、不幸の象徴を表す「幸」が、「殺されずに幸いにも命を取り留めて生きていることは実際一種の幸運なことである」を表しているという解釈を聞いて、一種の感動すら覚えた。

 これは老子が「禍兮福之所倚、福兮禍之所伏」(禍、福の寄る所、福、禍の伏するところ)という言葉に受け継ぎ発展させた思想ではないのか。老子は春秋時代の人といわれている。紀元前500年前後の人である。そしてそれとほぼ同様の時期にギリシャでヘラクレイトスが「万物は流転する」という弁証法的思想を説いている。

 甲骨文字ができたのは、老子やヘラクレイトスより1000年も前のことである。東洋哲学恐るべし。

 中国人はこのような太古の昔から、このような考え方をしていたのかと改めて感心をしている。この思想はどこか現状を達観した、ある意味では突き放した物事の捉え方、そのくせ決して現状を肯定しない考え方をしているように思う。

 日本人ならどのように捉えるだろうか。果たして「手かせ足かせを幸い」と認識できるだろうか。日本人は諦観の上に立った「現状肯定」に早々と行ってしまうような気がする。

 この考え方の違いは一体どこから出てくるのだろう。これを探ることは永遠のテーマのような気がする。

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