2012年12月24日月曜日

いかに「它」から「蛇」が生まれ出ずるか


前号で述べた通り、蛇を表す字は、「」という字であった。しかし、今では蛇を表す字は「」である。なぜ、「」が「」に変化したのか? またそれはいつのころか、唐漢氏はそれは甲骨文字が作られて以降、言葉の発展の過程で小篆のころに「」という漢字が確立されたと考えているようである。ではその変化はどのような過程を辿ったのであろうか。

引用 「汉字密码」(P102, 唐汉,学林出版社)

古代人が非常に恐れたのは蛇にかまれることであった。

 はるかなる昔、雨量が満ち溢れ、河の流れも湖沼も今日と比べるとはるかに満ち満ちていた。水草、灌木は生い茂り、鳥類の天国であったし又蛇類にとっても天国であった。このような環境に住み生活する上古の先民が農耕する上で、最も恐れたのは毒蛇にかまれることであった。一巻の終わりになるのはいずこも同じで、現代においてさえ、第3世界つまり発展途上国では三万人がにかまれて命を落としている。

「蛇はいないか」というのは、日常挨拶であった

  所謂古人は顔を合わせると往々に「蛇はいないか?」と尋ねた。この言葉で以てお互いの関係を表す挨拶としてきた。このことは後日中国人があいさつに「飯食ったか?」というが如しである。

いかに「它」から「蛇」が生まれ出ずるか

  上古の時期から、「」という字は、「其它」(その他のという意味)の「它」にもいつも借用されてきた。文字言語の中で使用頻度は非常に高く、区別のため人々は別に「蛇」という字を作った。あとから現れた「」の字は明らかに「它」に「虫」を付け加えたものである。

 こうして「」で蛇を表すことが実質的に難しくなったため、「」はいわゆる「それ」という意味を専ら表すようになり、本来の「へび」を表す字として「蛇」という字が作られたと考えている。

古代文化と蛇の密接な関係

 蛇と上古先民の命運の関係はひとりでに又古代文化と密接な関係を持っている。神話伝説中五色石で以て自然に打ち勝った「女か(じょか)」は、首は人間で体はであったと言われている。「帝王世紀」では、应牺氏は体は蛇で人の首をしていたと書かれている。

 はるか昔の先民の素朴な概念中まるでと親戚や血縁関係にあるとの咬傷から免れるかのようである。氏族のトーテムを作ったのは、まるでその他の氏族に対し一種の抑止作用を願ったかのようである。




2012年12月22日土曜日

来年の干支の蛇の起源と由来

 来年はへび年である。我々は人の年齢を聞くのに、直接「お幾つですか?」と尋ねるのは少し僭越な感じである。相手が長寿を誇っている場合まだしも、そうでない場合はやはり気が引ける。その場合、婉曲に何年ですかと聞くとあまり角が立たずに聞ける。この干支というものは大変便利であるし、ある意味合理的である。これに十干を組み合わせると60年になり、すくなくとも何十年前までは、人間の一生は60年ぐらいのものであったので、日常生活にはこれで十分事足りる。  しかし、来年はなぜへび年のなのか未だに良く分からない。  ここで漢字の「」の起源と由来について考えてみる。干支ではなく生物の「」についてである。  
引用 「汉字密码」(P100,唐汉,学林出版社)

「蛇」の古体字は「ウ冠にヒ」と書く。現代中国語では、この字と蛇では全く違う字になってる。両種の概念も同じではない。上古時代は、「ウ冠にヒ」は蛇の字であった。まさに甲骨文字が示すように、「」は象形文字である。
 まざまざと展開しているのは、長い大きい三角の頭を持った毒蛇である。金文と小篆の「」の字は文字の変化の過程の中で蛇の象形を失っている。ために「」の字はずっと前から代詞として用いられ、後の人は虫という字を旁に加え、と書き、もっぱら毒蛇の只一つの概念を表した。
 ここまで見てくると、漢字の蛇という字と干支のを表す「巳」とが、古代においても似ても似つかぬ字であることが分かる。 
 とするとやはり唐漢氏の言うように、子丑寅という十二支と動物は全く別物という考え方も出てくる。今の段階では、唐漢氏の言うように干支という時間軸の指標には人間の出産までの過程を表したものであるという考え方に同調するものである。




漢字の起源:紛らわしい「巳」と「己」

 「巳」と「己」は大変紛らわしい字である。この字については中国の大学者でも解釈に誤謬を含み、今日まで訂正されずにそのまま固定してしまったのもあるという。そこで、今回「己」という字に迫ってみようと思う。
引用 「汉字密码」(P860,唐汉,学林出版社)

 己は象形文字である。甲骨文、金文と小篆の「己」の字はまるで一条の縄の象形の様である。楷書はこれと一脈通じていて、この関係から「己」と書く。
 有史以前の文明の発展過程の中で、上古先民は藤の蔓や樹皮、動物の皮の長さや引っ張るのに限りあるもので物をつかんだりするのに少しずつ調べて縄を編む技術を発明した。些かの遊びもなく、生産に供し、生活に便利をもたらした。今日の人々には想像もつかないもの、まるい柵を編み、網の筒と落とし穴、木の箱を梱包し、投げ槍と矢の先端をつなげるなどした。まさに縄の多くの紅葉で大いに生産と生活の質を向上させた。この編むことに長じた、或いは縄やひもを喜んで頭に戴く部族は、「己」を自分を呼ぶ名に用いるようになった。 
 「己」の本義は縄やひもである。縄紐は物を梱包するのに用い、およそ縄は物を括り、その自然状態はどうであろうとも、「己」は帰属の意味に用いる。だから拡張して「己」は自己という意味になった。《玉篇》は「己」を「自分の身」なりと解釈する。《論語・学而》は「不患人之不已知,患不知人也」(患わない人は人を知らない患いである。《孫子》己を知り、「知已知彼,百战不殆。」(彼を知るもの百戦危うからず。)この中の「己」は全て自身を表す。 「己」は天干の第6番目である。もともと己部族に源を発し、殷商時代は祭りごとの格式の序列である。「己」部族は「斗、宗」で、その部族のただひとりが「王」である。(即ち雍己である)

2012年11月25日日曜日

来年はの干支は「へび」:漢字「巳」の出生の秘密

 「子丑虎卯辰馬未申酉戌亥」は地支、干支・十二支は殷商時代すでに天干と相交えて日にちを表していた。安陽の殷墟の小さな村で発見された、甲骨文字が刻まれた「甲子年表」はほぼ中国で最も早くカレンダーが順序どおり並べられていたことが知られている。」ということは既に述べた2011年2月の「十二支の始まり」という稿で述べた。
 しかし、「上古の先民は何のためにこの漢字を作ったのだろう。漢字はまたどんな事実の拠り所に、こういう漢字を作るようになってきたのか?」という疑問はまだ残る。要は漢字「」の出生の秘密は何?
 ここで唐漢氏は以下のような仮説を提唱している。
 個体発生学と人類発生学の相似の一面が科学的に証明されている。殷商民族は商代の甲骨文字に刻まれている、干支年表の十二支が嬰児の生育時期に酷似している。人類が何かを生み出す時期、全てのものは何らかの目に見える現象を以てその拠り所とした。文字のその例外ではない。十二支を考え出した拠り所は、古代人はまさしく人間が胎児のときから、生まれ出ずる過程の中にそれを見たと考えられる。天干の中の10文字と十二支の中の12個の漢字は必ず彼らの現実の生活の反映であるはずだ。

唐漢氏自身はこれを仮説としては認めてはいないが、しかしこれが仮設ではなくなるためには、まだまだ多くの裏付けが必要であろう。

2012年11月12日月曜日

漢字の起源:来年の干支「巳」


来年の干支は「巳」年である。これは、蛇である。なぜ干支が、用いられるようになったのかはまだはっきりとしたことは分かっていない。

 わが唐漢氏は中国の古代の人々は、12支の人間の生命の誕生の過程を重ね合わせてみたのだろうと考えた。
 
 この見解は、未だ多くの支持を得られているわけではない。もちろん私も支持するしないという立場にはない。ただ唐漢氏がそう唱えるから、さもありなんと紹介するだけのことである。しかし今は仮説かもしれないが、彼の説は、説得力もあるし、また非常に面白いと思っている。



引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

  巳これは会意文字である。甲骨文字では二つの書き方がある。図の上からは両方の書き方とも、嬰児がネンネコの中にくるまっている姿のデッサンである。区別は嬰児の手肘が胎嚢の中にあるか否かだけである。

  将にこの字は、産育の第6段階(子、丑の順に6番目が巳)にあり、また生育の過程の最終の終結である。金文は甲骨文字を受け継ぎ、その手は外に動かした形である。但し金文中の「巳」の「子」の形が良く似ているので、両者混交され易い。だから小篆は甲骨の第一の書き方を受け継ぎ、「巳」という字を当てた。 楷書ではこの関係から形を整え、「巳」とした。

  巳の構造的な変化は甲骨文字、金文、小篆に及び、多くの文字学の学者を混乱させた。例えば許慎は説文の中で「巳」は「已」なりとし、四月に陰気が出るのをやめ陽気が、蔵にいるのをやめるが故に「巳」は蛇の象形文字と考えていたろうという。

  「巳」の本義はおくるみに包まれた嬰児である。仮借で地支の第6番目に来たが、巳干を用いて時を記す時、巳の時は即ち午前9時から11時までを示す。地支の「巳」と天干(甲乙丙丁戌己・・)の「己」とは形がよく似ていて、混同しやすい。しかしその形の来歴は巳は嬰児とは同じではない。上部口が閉じていれば、巳は頭を表し、上部の口が閉じていなければ荒縄のとぐろを巻いた状態を表す。

巳 へび 十二支の第6番目
已 止める、すでに あとで
己 おのれ、つちのと(天干の第6番)

2012年10月26日金曜日

民族主義の原点、中華の「華」の語源と由来

 現在、中国では小学校では、「華夏」という言葉の意味について教育が徹底されているという。この華夏というのは、「中華」の華であり、夏商周の三代の最古の王朝「夏」のことである。中国の子供たちには自分たちが世界最古の文明を維持して持つ、中華民族であり、これまた最古の王朝である夏王朝の末裔であることが徹底されているという。 実際の中身が分からないが、民族教育としても、「社会主義を目指す国」の民族教育としては、少しお粗末ではないだろうか。もう少し、現代的な、世界の中の中華民族を言うことに重きを置くべきと考えるが・・。

 さて、今回この「華」という字に焦点を当てる。この「華夏」ということについては、NHKが今年の10月18日の総合テレビで、中井貴一さんがレポート役とした、番組を組んでいた。中国では「二里頭村」というところで、「夏王朝」の宮殿が発掘され、今まで伝説上の話として伝えられていたものが、実在したことが確実になったと伝えている。
引用 「汉字密码」(P136, 唐汉,学林出版社)


 「華」は植物の有性繁殖器官であり、古代には華と書いていた。
华は「華」の簡体字である。図に示すが如く、甲骨文字の「華」の字は、まるで木の上の花が咲き誇っている様子である。華は象形文字である。金文と小篆は大きく変化しているが、その趣旨は変わっていない。上は花や葉が茂っている状態で、下は茎や幹枝が伸びているようである。
 古代、木の上の開いた華を称して「華」となし、地上の植物の花が開くことを「栄」とした。
 先に華があり、後で花が出来た。花はいつごろ出来たのだろうか。南北朝以前の書の中には見られないが、晋代の詩の中に、「一岁再三花」の句が見られ、花の字は晋朝に出現したと云われている。 「花」という字の出現后も、多くの成語の中に華の字を用いる習慣が残った。
 「花」、「華」は機能が分かれ、「華」は多くは抽象的意味を受け持ち、華彩、華麗の様に使われている、又
「華夏、華裔」など、中華民族の仮借を指している。一方、開花の華は即ち「花」と書く。
 花の字は草かんむりと化けると書く。これは会意形声字である。化けの字は甲骨文字中では一人が正立、一人は倒立した二人の人間を表現し、人の生と死の変化を示す。花は開いて落ちる、盛んなること敗れることがある。 花は化けるの音符を用い音と意味を表す。
 

2012年10月8日月曜日

漢字:「者」の起源と由来


前回「都」という文字について考えた。今回はその部首である「者」について考察する。
引用 「汉字密码」(P780, 唐汉,学林出版社)

漢字:「者」の金文から楷書への変遷
「者」は漆塗りのための容器を表す。

者は一個の会意文字である。上部は泰の字で、下部は口であり、容器を表している。

 者は一個の会意文字である。上部は泰の字で、下部は口であり、容器を表している。両形の会意で、漆塗りのための器を示している。金文の別の書き方の「者」の字の上部は、形は変化している。小篆の「者」の字は、後で書くようになった金文の左右の斜めの画が連写されるようになっている。まん中の直線の下部の口は一緒に続けて書かれる。隷書化への変化でついに楷書の「者」になった。「者」の字の形体の変化の軌跡は明瞭である。

「者」は漆塗りに用いる器物で、本義は「付着」である。

 「者」は漆塗りに用いる器物で、本義は「付着」である。即ち「著」の最初の文字である。自然界には付着したものが他の者の物的現象の普遍的存在を表すことがある。「日月星辰」が天を表し、山水草木が地を表す様なものである。上古先民は労働実践から、通さない付着力の最強のものは漆であることを発見した。 この為漆を用いた什器は付着と同じ概念である。

「者」は説文では、代名詞である。

 「者」は説文では「者」と別のものに解釈している。曰く「者」は代名詞である。古文中「者」の主要な用法は動詞、形容詞の詞・句の後面におかれ、人、事物、時間、所、原因等等を重ねて述べる必要の時に代わって表すのに用いられ、単独では用いない。

者の字は部首にもなり、漢字の中で、全て付着に関係している

 者の字は部首にもなり、漢字の中で、全て「者」の音を持ち、全て付着に関係している。「猪、署、奢、著、著」 等がそれである。 
  

2012年9月26日水曜日

都という漢字の起源と由来



引用 「汉字密码」(P727, 唐汉,学林出版社)

「都」は多くの小さな町を従えた大きな都市

「都」は会意文字である。金文の「都」の字は左右が結びついたものになっており、右辺は「邑」で「人が集まって住む都市」を表し、左辺は「者」という字である。もともとは漆塗りの器の意味である。両形の会意で、多くの小さな町を従えた大きな都市を指している。



国の城(街)を都と言う。いわば国君が住むところ 

 今の人は国の首都を「都」と称す。 《释名•释州国》:「国城曰都,言国君所居,人所都会也。」 国の城(街)を都と言う。いわば国君が住むところで、人皆会うなり」また拡張して大都市という。


「都」は 「全てが集まるところ」の意味で、中国語では「全て」という意味に使われる

都市は庶民が物品を合わせ集めるところで、だから拡張して集合の意味になった。聚集から「全てが集まるところ」の意味で、完全とか全部を表す。杜甫の「喜雨」の詩"农事都已休,兵戎况骚屑。"ここでの「都」は即ち総括を表す。都は副詞を作り、強調する作用もある。例えば「连里头的衣服"都"淋湿了」この解釈は「中の服でさえずぶ濡れだ。」
  


2012年9月25日火曜日

京都の「京」という漢字の起源と由来はいかに


京と高、膏等は同源で、上古社会の夏華民族の生殖崇拝から来ている。或いは男性の自身の感受的なデッサンである。
引用 「汉字密码」(P524, 唐汉,学林出版社)

京都の「京」は男性の自身


 「京」と高、膏等は同源で、上古社会の夏華民族の生殖崇拝から来ている。或いは男性の自身の感受的なデッサンである。




京の字の上部は男性の生殖器 

 甲骨文字の京の字は上部は男性の生殖器の符号の「舎」で下部の「内」は男性の両脚を表す。中の縦線は男性の精液が下腹の腹腔から噴出している様を表している。右の図の4つの甲骨文字のデッサンは将に男性の射精を非常に感性的で直観的に描写したものである。甲骨文字の京の字はこの4つの書き方の簡略形とも見られる。

常用されたのは一般の意味の「高崇」という意味 

 「京」の本義は男子の射精の精液が高く上ることである。しかしこの本義はこの意味で使われることはない。古代漢語中、常用されたのは一般の意味の「高崇」である。

北京市の高大な建築の連なりは「京」の如し、中国の象形文字の生命力に驚嘆する。 

 後の人は国の都を称して「京」と呼ぶ。即ちその建築物は高宗で高くそそり立ち昂然としているの意味である。今日の北京市の眺めれば、一つ一つの連なりは「京の高大な建築の如しで、まさに中国の象形文字の生命力に驚嘆する。京は二音節の言葉で、「京城、京华、京兆、京邑、京哉」など多くあり、消滅したものは僅かである。

2012年9月21日金曜日

赤という漢字の起源と由来


 紅葉と書いて、コウヨウと読む。この「紅」とは赤いという意味であるが、この赤いという意味を持つ漢字は多い。
「紅 緋 赤 朱 茜 纁 绛(日本語では糸偏)」などがあり、それぞれ少しずつ色合いが異なっている。
 今日はその中でも、「赤」と言う字の起源と由来に焦点を当てる。
引用 「汉字密码」(P632, 唐汉,学林出版社)

 「赤」 これは会意文字である。甲骨文字の「赤」の字は、火の上にある大の字から出来ている。まるで人を焼きつけている火の上においたようである。はるか昔、生贄の人を火あぶりにして雨ごいをした習俗があった。「赤」の字は将にこの種の習俗の形を反映したものである。小篆の「赤」の字は隷書への変化の過程で、今の楷書の赤の字になった。上半分は人の形で、少しずつ変化して土の字になった。

 「赤」はもともと一種の祭祀の名称であった。示しているのは火で人を焚きつけて雨がほしいことを感じさせる。火の炎が起こってくると、まず人の服装を焼ける。この為赤は空と裸の意味がある。「赤地千里」(干ばつや虫害で土地が莫大な広さで枯渇する)、赤貧(貧乏のひどいこと)、「赤手空拳」(自分以外頼るものが何もないこと)、「赤足」(はだし)、「赤膊上阵」(鎧兜を脱いで突き進むこと)、「赤条条」(素っ裸であること)等。人を焚きつけて火で赤く焼けるの意味もある。この為拡張されて朱紅に比べ少し浅い紅色とという意味となった。後日、広く赤色を持つものを指すようになった。

 宋代の詩人陸遊は《记老农语》のなかで「霜清枫叶照溪赤」と詠った。詩の中の赤は即ち紅色の意味である。紅色は鮮血の色、また心臓の色、以て今日革命を象徴するのに用いられる。血を流して自由を勝ち取ることを表示し、赤衛隊、赤胆忠心(忠精心にあふれている)等。

2012年9月19日水曜日

親という漢字の起源と由来



 親と子の関係はずいぶん薄くなった。昔は親は子供を育てるだけで、いわばその関係はゆるぎないものだあったが、今では「親は無くとも子は育つ」とか言われ、親の力はなくなって来た。それだけ世の中が複雑になっていたのであろう。

 しかしここで展開される説は少し逆説的すぎるようにも思うが・・。  

引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

 金文の「親」の字は会意形声文字である。左側は「辛」という字で捕虜の刑具である。右側は眼を表している。図形全体では会意の方式で首の上に架せられた刑具を表し、眼で極めて近い距離にあることを示している。小篆では、変化していく過程で、「辛」の下に木の字を加えることで「木」出来た刑具であることを強調している。楷書ではこの関係から「親」となり、簡単字化で半分が無くなっている。

 親の本義は近くに張り付いていて、中途半端な距離ではなく、極めて近い距離にあることを示している。孟子の「男女授受不亲 , 礼也。」(男女の間では直接、物をやり取りしないのが礼儀だ)男女の間では媒酌を経ずして婚姻を結ぶことで、相互に近く接触することはすべきでない。現代漢語の中では本人が手を動かして、中間に他人を入れることがないのは「親、親自、親手、親信」などという。

 近から親は、また関係を指す。感情の近いこと親密なることをいう。名詞が出来て、血縁があること、或いは感情の親密な人は「双親、舅、表親、親戚」等。特に婚礼の時、元来疎遠な人と一緒に契りを結ぶことを「結親、親事」等という。「親家」の中の親は発音はqinといい、良家の娘息子が夫婦関係の後親戚となることを言う。

 「辛」は刑具である。首の上にかけ、捕虜であることを示し、奴隷の命運の始まりを意味する。また異国の地にあっては「举目无亲」(全く身寄りがいない)ことは凄惨な生活の始まりである。古人は眼と刑具で距離感を表し、哲学的な響きでもって、あなたの自由になるものか、あなたの近いものかを限定した。
 


 

2012年9月7日金曜日

柵という漢字の起源と由来



柵という漢字はある意味では原始的な漢字である。それは見ただけでは、進化というものを殆どしていないように思う。字というものはその時代につれ、文化の進展につれて、進歩していくものである。なぜ進化したか、なぜ進化しないか、それはそれで、研究に値するものだろうと思う。

引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

 柵は象形文字である。甲骨文字、金文字の柵の字は等しく上古時代の柵の欄で、垣根のデッサン絵である。図がよく似ているので、周時代は古文字の中で「柵」は木簡柵(文字を書く柵)に借用された。即ち、串で一緒にされた字を書くための竹の木簡である。

 区分を明確にするため小篆では木偏が付け加えられ、専ら柵の欄の意味に用いられている。そして会意形声字となった。楷書ではこの関係から「柵」と書かれる。説文ではかたい木を編んだもの。木と冊から冊の音とする。

 木や竹を用いて編んで垣根とする。古代では物を押しとどめるために多用された。商周の時代の青銅器多くの柵の図形がある絵が書かれていた。図1の如く豚を飼う為で、二つの目が看守の人がいることを示している。二つ目(図2) 柵の中には牛と樹木がある。3つ目の図3は柵の下に4把の木鋤があり、柵で囲んだ土地の上の工作物を表している。

 《後漢書・段颖传》の中には千人の人を遣わして柵を作った。広さ20歩、長さ40里。これは古人が柵を用いて辺境を明示した文献の記載である。

2012年9月6日木曜日

住まいの漢字 「宿」の起源と由来


今では死語となってしまったが、「宿場、宿六」などという言葉はなんとなく、鄙びた語感を持っている。今も宿屋と言えば基本的には、日本風の宿泊施設のことを言い、ここでは「女将」という主人がいるのが一般的である。あまり宿の亭主に男が出てくることはない。これは接待される方にとって、男の「主人」ではなんとなく、気づまりなところがある。

引用 「汉字密码」(P723, 唐汉,学林出版社)

 「宿」は会意文字である。甲骨文字の「宿」の字は外は家屋のデッサンである。家屋の中の右には蓆があり、蓆の上で仰向きに横になっている。金文の構造は甲骨文字と同じであるが、蓆の形が三角形に変わっていて、人と蓆の位置が入れ替わっている。小篆の「宿」は変化していく中で、蓆は「百」の字に変わって、楷書では「宿」となった。

 「宿」の本義は、住む宿のこと。《苟子・儒效》の様に、宿と百泉に暮らす。現代漢語では「宿営、風餐露宿」等の言葉もある。  名詞に変わって住む場所を表すようになった。《周礼・地官・遗人》の如く「十里行くと飲食できるところがあり、30里行くと食事のできる宿がある。又転じて夜を指すようにもなった。 贾思艇の《齐民要术・水稻》の様に「種を洗い、三宿漬けておく。」ここでは「稲は洗った後三夜漬けておく」と言っている。又さらに拡張され、隔夜、隔年のようにも使われる。さらに古いの意味で「宿麦、宿願、宿志」の様にも使う。

 また年長を讃えて、経験者の様にも使う。「宿将、宿者」の如く、宿将は経験豊かな老将の意味である。   

2012年9月1日土曜日

寝: 漢字の起源と由来

  寝室は中国語では「卧房」という。さて、ここで「寝」と同じような意味を表す漢字に「卧、寝、寐、眠、睡」がある。意味は似ているが具体的な使用方法には、少し違いがある。「卧」は腹ばいになって寝ることを指す、但し必ずしも眠っているわけではない、その姿形に重点がある言葉である。「寝」は睡眠を指す。眠っている部屋に重点がある。「寐」は一般的に寝ることを指す。睡眠に重点がある言葉だ。「眠」は目を合わせて閉じているのが本義で、そこから拡張され、「睡」を表す。「睡」は座って首を垂れうたた寝をしている意味である。
 


引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

「寝」の本義は睡眠である。



 「寝」の本義は睡眠である。また寝室を表している。甲骨文字では、「令多尹作王寝」とある。これは多数の執事や大工に命じて王の居住の寝室を作らせたということである。



「寝」は 居室を寝るために清掃することを示している。 


 甲骨文字の「寝」の字は会意文字である。外側は部屋を表す形で、内部は箒の象形である。両形の会意で居室を寝るために清掃することを示している。金文の「寝」の字は甲骨文字の基礎の上に一個の手を加え、清掃することを明確にしている。小篆は金文の形に人を加え、楷書では「寝」と書く。また造字の方法で人を変化させ、寝台の意味を持たせ、これを簡単化した旁で、「寝」とした。

 「寝」は説文では「臥」なり。


 「寝」は説文では「臥」なりとある。「体を横たえて寝る、休息の意味である。論語の衛霊公では「我味わいて、終日食わず、終夜寝ず」とあるのは俗に言う、「夜食が不安なら寝るのも安定しない」の意味である。 「寝」は名詞を作り、寝る場所を指す。「入寝、寝室」など。又特に帝王の陵墓を「陵寝」などという。 

2012年8月31日金曜日

住まいの漢字 「寓」:漢字の起源と由来


男なら一度はあこがれる住まいではないか。この言葉からは、世の中の喧騒から離れ、花や草木、自然の風を愛し、何事にもつつましく、しかもよく弁え、それでいて世の中のことには通じているそんな優雅な少し「枯れた」文人を想像する。
「ラジオもない、テレビもない、何にもない」 それでいいではないか
引用 「汉字密码」(P721, 唐汉,学林出版社)


"寓 yi"は
手を使を用いてあるいは棍棒で蛇を追いかける意味。

"寓 yi" は、これは会意兼形声文字である。金文の "寓 " 文字、外部示す家屋の "屋根"の形、内里の古い文字の「禹」文字は、手を使を用いてあるいは棍棒で蛇を追いかける意味。小篆の "寓 "の字 は文字は繁化の規則通り、 "窝" (「巣」という意味)に移り変わった。楷書はこれを受けたが、基本は変化していない。

"寓" は日頃使われていない、もっぱら御客の為に準備した一時的な住い 

家の内に蛇がいる、無人居住のため、居住し入り込む内には、蛇を追い出して清掃しなければならない。だから、"寓 " は日頃使われていない、もっぱら御客様あるいは通行人の為に準備した一時的な住いと理解できる、即ち"客寓"。客がこのような家に住み、寄居することを示す。

《孟子・離委下》:"住む人のない私の室で。その中の "寓人 "の一詞は、人を寄居させるの意味。"寄居する " の義によって、また拡張して"寄託" となる。欧阳修の《酔翁亭日記》のように:"山水の楽、得心のいく心そして寓の酒。

哲理的な文学的体裁が包含した生活 

「寓言」 の言葉は、本来あるところに寄托するの意味だ。以降一種の哲理的な文学的体裁が包含した生活をいう。

2012年8月29日水曜日

「罪と罰」: 漢字の起源と由来


ドストエフスキーの「罪と罰」という小説はあまりに有名である。人間の性とも言うべき心の内面をえぐり出したものとして、深く印象に残っている。
 人間は最初から誰でも悪人として生まれるわけではない。性善説というより人間が生まれ落ちた時は、善悪もない真っ白な状態で生れ落ちてくると考えている。つまり白紙の状態だ。結婚式の時花嫁が白無垢の振袖を着るのも「自分は白紙の状態で嫁に行きます。あなたの好きな色に染めてください」というのとよく似ている。
 しかし次第に世の中で色々揉まれているうちに、悪に手を染める人も出てくる。しかしいかなる人も、悪に手を染めるについても必ずと言っていいほど、自分なりに大義名分つまり言い訳をする。「自分は許される」、「上司に命令された」、「金が必要だった」などなどである。「罪と罰」主人公も老婆を殺して当然だという言い訳をして犯行に及んでいる。
 そして、この言い訳で自分の箍が外れてしまうとだんだん歯止めが利かなくなる。このことは犯罪でなくてもごく一般に見られることである。自分にいわけを探すのではなく、自分を律することが出来る人こそ真に立派な人と言えるのだろう。大概は「仕方がなかったんだ」と自分を正当化するようになる。これが恐ろしい。
 昨日「罪」という漢字の起源を明らかにしたので、今回は「罰」という漢字に焦点を当ててみよう。罰は古代の罰は非常に残虐なものであった。今ではこのような残虐なものはもちろん許されないが、罪を犯すことを予防する意味で罰は必要なものだと思う。しかし秦の「商鞅」と言う人は、あまりに厳しい信賞必罰を行ったがため人々の反感を買い、八つ裂きの刑に処せられている。ほどほどが肝心ということか。
引用 「汉字密码」(P652, 唐汉,学林出版社)

「罰」は三つの部位の会意文字で罪人を処罰することを余すところなく表現している


 ”罰fa”、これは三個の要素からなる会意字である。金文の”罰”の字、右辺は”刀”の形をしており、刑に用いることを表示している;左辺上部の”網”の形は、捕捉することを表示している。また捕捉のやり方を表示しているともいえる。下部は”言”の字で、判決を示す。三つの形の会意で、罪人を処罰することを余すところなく表現している。小篆は金文を受けて、ただ”網”の形はいっそう形を変え、楷書では”網”を「言と刀」の上に置き、かつ”小刀”形を”立刀”に変化させて、”罰”と書く。

「罰」の本義は処罰するため、即ち過ちを処罰するという意味を表す 


 ”罰”の本義は処罰するため、即ち過ちを処罰するの意味を表す。清代の徐濒は《説文解字注釈》は曰く”罰を網と言葉と小刀からなる。「網」は罪の省略形だ;「言」は罪を決定した意を書く;「刀」は死刑から鼻をそぐ(yI)手足を切断する、頭髪をそり落とす、顔に入れ墨をする等の刑に至るまで皆刑を示している。”


現代漢語中の意味も古代と変わらず 


  《三国志・蜀書・諸葛亮伝》:”法律違反怠慢者はみずから、必ず罰する。”その中の”罰”は即ち処罰するの意味。この意味は今に至るまでそのまま用いて、現代漢語中で”懲罰、過料、罰没、体罰”などの語彙がある。

2012年8月28日火曜日

65年目の「罪と罰」:「罪」という漢字の起源と由来


韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領は14日、天皇陛下の訪韓について「(日本の植民地支配下で)独立運動をして亡くなった方たちに心から謝罪するというのならいいのだが、『痛惜の念』だとか、こんな単語一つなら、来る必要はない」と述べたという報道(「毎日新聞」 2012.8.14付け)が大きな波紋を呼んでいる。日本の新聞各社はこれに対し、早速反論を展開し、政府も中日韓国大使を呼びつけ抗議をし、各種外交上の手を打っている。韓国の大統領にしても少し失礼な態度であると思うが、そんなにカリカリするほどの問題ではないと思うのだが・・。こんなことを言うと火に油を注ぐようで、すこし危ないが、日本の国民も冷静に対応したいものである。
韓国の大統領も少し大人げがない態度だと思うが、日本も声高に喚き散らすのではなく、冷静に対応し、いたずらに民族感情をあおることは何としても避けるべきである。
 また、従軍慰安婦の問題、南京問題などについても、今後も、何か問題があれば持ち出されるであろう。「忘却の」彼方に押し遣ることなく、今日の問題として、国としても真正面から向き合い、真摯に襟を正すべきだろう。こうした日本の態度が、あってこそ韓国、中国、台湾、東南アジア諸国などからアジアの友人として迎え入れられるようになるだろう。
 靖国参拝の問題に対してもしかりである。参拝される方達は決まって、「英霊を祀ることは、日本人として当然のこと」と仰るが、ドイツの首相が、ヒットラーの墓前に花束をささげに行ったとしたら、世界のユダヤ人たちはそれを良しとするだろうか?あるいは世界の人々はそれを良しとするだろうか。日本が中国・朝鮮に対して行った侵略は紛れもない事実ではないのか? いかなる問題も自分たちだけが納得すれば、それで「文句言われる筋合いはない」ということではないだろう。
日本人の過去の戦争に対する態度で、司馬遼太郎氏も深い憂いを以て述べられていた。同じ道を引き返してはならない。

どうしても、靖国に祀るというなら、靖国神社を不戦の為の神社として位置付けてはどうだろう。そうなら世界中の人間も納得するだろうし、靖国法案一本でかたが付くと思うのだが。
 われわれは他人を一方的に非難する前に自ら内省的に考えることは自虐的なことでもなんでもなく、むしろ大人の立派な行為と考える。

 さて、このサイトの目的は漢字を通して文化を探求することであるので、本来の目的に立ち返る。ここで出てきた「謝罪」の「罪」とはいったいなんだろう。
引用 「汉字密码」(P632, 唐汉,学林出版社)



"辠”は奴隷の鼻を切り取ることを示している

 "辠”は“罪 "の初文字であって会意文字である。金文の "辠 " の文字の上部は "自 " で、鼻を示しており ;下部は "辛 " で、奴隷を示している。両の会意で、奴隷の鼻を切り取ることを示している。
 《説文》は "辠を解釈して、「法を犯す」なり、辛と自とから、いわゆる法を犯した者は鼻をしかめて苦辛の憂と言う意味となった。


始皇帝は「辠」の字が皇に似ているということで「罪」に改めた。



 図の示すように、小篆の "罪 " 文字二つがある、一つは金文の "辠 " から来ていて、もう一つは秦始皇が命令して作った新しい "罪 "の文字である。"罪 " の文字 を作って以降、「罪」は、法網に捕捉した下の不法の人を示している。

苟子の必罰主義 

 "罪 "(辠 ) の本義は犯罪者で、古代の割鼻の刑も示している。また拡張されて法を犯す行為、即ち犯罪をいう。《苟子・王制》にあるように、功無く褒めることもしないのは、罪もなく罰することもしないのである。"犯罪を犯した後、必ず処罰される、鼻を切り落とされ非常に苦しい目に会う。

 だから、"罪 " は又拡張され苦痛、例えば "受罪"の様に使う 。

 古代の帝王はたまたま天災と人災があったとき、人民反抗を緩和するために、往々にして"罪己诏 "を公布し、自責することを示す。ここの "罪 " の意味はいわば "呵責 " という意味だ。

2012年8月26日日曜日

呉:漢字の起源と由来

 日本では、呉越同舟などで聞かれる以外、あまり聞かれなくなった。呉越の戦いに係る成語としては、この他に「臥薪嘗胆」などがある。


 現在の紹興にその遺跡はあるが、その地に立てば、「兵どもが夢のあと」の様に時空を超越したものではなく、未だに地の底から這い上がってくる怨念の様なものを感じてしまった。越王と言う人はそれだけ執念深かったのかも知れない。


 写真は紹興酒の故里の紹興にある越王殿である。又上の写真はこの越王殿に行く道の城壁に彫られたもので、いたるところにこの成語があふれているという感じであった。この標語は近年に彫られたものであろうが、この山からは何かオーラを感じてしまう。
この時代が紀元前7世紀の春秋時代と言うから、やはり中国の歴史の凄みを感じざるを得ない。


















引用 「汉字密码」(P374, 唐汉,学林出版社)

  「呉」は会意文字である。甲骨文字の「呉」の字は、頭を傾けた形であり、まさに大口を開けて話している形状で、金文は口が旁で頭を傾けている意味が更に明確である。小篆は金文を受け継ぎ、楷書では呉と書く、簡体字では「口に天」と書く。他人に対して頭を傾け、一顧するに値しない気持ちがあって、大口を開けて話する、反駁を表示する。だから「説文」では「呉」は大言なりとしている。また地名・国名を仮借している。

 呉国は本来周代の諸侯国を指すのだが、以降もっぱら三国志の呉国(現在の長江中流と東南海一帯を指す。また中国人の姓氏の一つである。

2012年8月18日土曜日

「宣」 漢字の起源と由来


 「家・居室」を現す漢字が、社会の仕組みが発展するにつれ、単なる居室ということではなく社会的機能を表すようになってくる。この「宣」という漢字などは、完全に「王の宣旨をする部屋」というある意味、殆ど単一の機能に用いられている。
引用 「汉字密码」(P719, 唐汉,学林出版社)


"xuan " は会意文字だ。甲骨文の "宣 " 字は、上部は家屋の外形"∩ "を表し、内里は回転を示す記号である。二つの形の会意で、これが人が屋内走り回れる一種の大きい部屋と認められる。

  金文の "宣 "は、外枠と甲文は似ていて、ただ中は回転の記号が美観上対称になっているにすぎない。大いに巻いている様子と、その下はまた一つの点が加わり、家室前の足場も示しているようだ。またここから入っていく意味を表している可能性もある。

 小篆の "宣"の文字はこれから来て、楷書それ故に"宣 "と書く 。


 "宣 " 、《説文》では "天子が宣旨をする部屋と解釈している。ウ冠と「亘」の読みから出来ている。"宣“の本義は大きな部屋である。そこから引き出されて、王の居住する宮室を指す。《淮南子・本経訓》に記載されている "武王は武装した兵士三千を率いて、纣王を野に破り、宣室でこれを殺した。"ここの "宣室"、は纣王が居住する宫室の意味である。

 宣の "大きい家"の意味から、また引き出されて "大げさである"の義も出てくる。例えば《詩・小雅・鸿雁》では:"维あの愚か者は、大げさなことを言う。"ここの "宣骄 "は、"驕慢で驕った"という意味である。

 高くて大きな家の室内は当然明るいし風通しもいい。だからそこから引き出されて、"順調だ" の意味も出てくる。晃错の《賢良対策を上げる》のように:"政で明らかにしなければ、民は安寧ではおれない。" またさらに引き出されて「拡大して、発表して、伝わり広まらせる」の意味にも用いる。 "宣揚、宣旨、宣誓"など。この意味はさらに拡張され公開、明らかにするの意味にもなる。例えば "心に照らして宣せず、洩らして広める" など。

2012年8月12日日曜日

権力の象徴としての「宮」が世に現る。 その起源と由来


  今日は漢字の「宮」について触れる。「宮」は皇帝の居室とされるが、それは「堂」と呼ばれるよりもはるかに粗末なものである。なぜだろう?その一つの理由は、時代が堂の方が下っているのかもしれないということと、「堂」は神の住まいとして権力の象徴として公に誇示しなければならなかったのに比べ、「宮」は皇帝の私的な目的である居室として使用されたことが二つ目の理由ではなかろうかと考えている。
 殷の時代には瓦ぶきの立派な建物が作られており、ここで言及する建物はいくら私的に利用するといえ、時代的には大分遡らざるを得ないと考えている。さらに調べてみたい。

引用 「汉字密码」(P720, 唐汉,学林出版社)


 高さ1メートルプラットホームの上に位置した「宮」

 "宮 gong" は、会意文字である。甲骨文の "宮 " 文字は、その上は家屋外形の "∩" 、さらに内側には二つの口の字があり、これが多くの部屋が並んでいる建物を現わしている。安陽の殷墟の発掘の際に、長さが 28 米、縱 8 米の建物の土台を発見した。それは足場が繋がった高さ1メートルプラットホームの上に位置して、屋根は三十一本の木柱によって支えられて、二つの大きい使用区に仕切られていた。宮、かもしれない、この列部屋の描写の図である。

 金文の "宮 " 文字は金文を受けて、ただ一対の口の配列を上下の組み合わせとした。  小篆の "宮 " は二つの対の口を短い竖線で接続して、二つの部屋が通じ合うことを示し、その上部には一点が追加されて、まるで建物の屋根の背の棟の形を補充しているようである。楷書で"宮 " と書く。

 "宮 " の物象本源は部屋が多く並べられた大型の平屋である。 

 "宮 " の物象本源は部屋が多く並べられた大型の平屋である。史載、先秦では無論、居住者身分の贵贱、家屋の大きいものは、全て宮と称することが出来た。しかし秦以降は、"宮 "は王封建帝が公事と居住の場所と専ら指定した。例えば "阿房宫、乾清宮、故宮"など。古人は神様の廟は人の為の居室と比べはるかにきらびやかで寛大で、その中また居住している神霊はきらびやかだ。だから、廟宇も "宮 "と称す。例えば "紫薇宫(百日紅宮)、雍和宮 "など。

  現代はまたわりに大きい公共文化娯楽の場所を"宮 " と称している。例えば "少年宮、文化宮 " など。 

 "宮刑" は男を生殖器を去勢する刑罰 

 "宮刑" 、は古人の淫乱を懲らしめたりあるいはほかの犯行に対する一種の刑 :女幽を宫室の中おしこめ、永遠に男をみることを禁じる。男の場合は、生殖器を去勢して、永遠に女性を親しむことが出来ないようにする。西漢の武帝の時、李陵の為を少し庇っただけの理由で司馬遷は、宮刑に処せられた。彼は《報任安書》の中で、悲憤の内に書いた "膨大な宮刑の話をしている。(この刑は男にとって何よりも屈辱であったようだが、時代が下れば、刑罰ということではなく、自ら宦官になるため施術を行うものも現れた。それでも、宦官としての地位は低く、その地位に陥ったものは、皆ある種の劣等感に苛まれていたようである。そのあたりの事情はNHKのドラマ「蒼穹の昴」に詳しい。宦官もその任を解かれたりしたものは、自分の「お宝」を買い戻すこともあったようだ。 補足:筆者)

2012年8月10日金曜日

臭ーい話 :「厠」 漢字の起源と由来


  これまで中国古代の家に関する漢字の変遷について調べてきたが、ここで少し息抜きに「厠」について考えてみよう。厠と言えば云わずと知れた便所のことである。古代で実際に厠というものが作られたのは、随分時代が下ってからのことではないだろうか。
引用 「漢字源」(主編者 藤堂明保,学研)

 「厠」 漢字源:鼎の傍にナイフをくっつけたさま。厠は「ガンダレ(家を表す部首)+音符(則)」で屋敷の片隅に寄せて作った便所のこと



  トイレと言えば、筆者もお粗末トイレに遭遇したことがある。中国の蘇州のホテルの便所である。ホテルはたしか「如○」という名の大衆ホテルだったと思う。ホテル自体は安宿ながら、新しく清潔だったのだが、そのトイレがどうにも首をひねらざるを得ないものだった。 写真でも分かるようにトイレとシャワー室が一緒になっているタイプであるが、このシャワー室のドアは外開きになっているので便器につかえてシャワー室に入れないのだ。これはどう考えてもドアをつけ間違いの様に思う。外開きとしてもドアが手前に開けばまだしも向こう側に開くようになっているため、入るのには非常に苦労が伴う。自分はそれほどメタボではないが、それでもシャワーを浴びるのに体を捩って、中身が出ないように気をつけて、漸く中に入れたことを記憶している。
  
 この豪華版が次の写真だ。これと同じものに筆者が遭遇した。とある大学の、国際交流棟にある領導の事務室にそれが添えられていた。学生も出入りする事務室である日、改造されて、部屋の中に金魚鉢が備え付けられていた。いくら中国人が「領導」を大事にするからといって、これはないだろうと思っていたが、このようにインターネット上に全く同じものが暴露されるということは、中国国内では、このように馬鹿げた(失礼)慣習がまかり通っているように思われる。学生にかかわる費用はぎりぎりと切りつめておいて、こんなバカげたことがまかり通るとは、日本並みになって来たというべきかもしれない。 このデザインは私が見たものと本当にそっくりだ。ということは、同じ業者の設計施工によるものと思われる。同じ省内ならまだしも、省が違うなら、全国的な利権がその背後にあると考えざるを得ない。私自身の下種の勘繰りであればいいのだが。




またインターネットを見ていたら、抱腹悶絶もののトイレをアップしていたサイトを見つけたので、ついでに紹介したい。
  URLは次のリンク 貼貼。 興味のある方はどうぞ。但し中国語サイトなので、お含みおきを。


 そのなかで2,3面白そうなものをピックアップしたい。  私はここに上げた画像のばかばかしさを笑うというより、こんなことを大真面目に手を尽くして頑張る中国人に拍手を送りたい。これぞ文化なのだ。ばかばかしいが将に文化のきわものと言うべきだろう。










私はこの画像を見て、少しショックだった。というのは、どうすればこのようなものを作り出すという発想がでてくるのだろう。

中国人と日本人これは私の永遠のテーマではあるが、日本人には決してこのような発想は出てこないような気がする。

すくなくとも中国人は日本人に比べ、開放的であるし、大らかだ。

ここにはあまり多くの画像はアップしていないが、中国人は日本人の様にあまりいろいろ隠そうとしない。すくなくとも庶民の生活レベルではである。この河の縁の3つの便器に3人の「おっさん」が並んでたれている場面を想像して見ただけで・・。「おぞましい」とみるか?

2012年8月7日火曜日

住まいの漢字「堂」の起源と由来

時代もここまで下がってくると建物は大規模にして、壮大なものが出てくる。漢字もそれにつれ、「堂」という後世我々が大きな建物に用いる漢字が生まれてくる。堂々としたものである。この「堂」が歴史上に出現したのは、時代もだいぶ下ってのことと思われる。殷代の「宮」という宮殿を表す漢字の示す建物はこの「堂」よりもはるかに粗末なもので、時代考証がもう少し必要かもしれない。(宮が先か堂が先か?)
引用 「汉字密码」(P719, 唐汉,学林出版社)

堂の物象本源は、プラットフォームの上に建てられた高大な建築をいう

 "堂" 、《説文》は "堂“を殿なりと解釈する。土と「尚」の音からなる。"図に示すように、金文中では、堂を意味する象形を具有している。上部は両方に下がった屋根のデッサンの形になっている。(絵だけから見ると、かなり複雑な形状をしている) 下部は台を示し、その建築形状は古代の殿堂である。  金文の別の「堂」の字は上部は "尚" で、家面が両方に坂になっている大部屋を示している。下部は立った形でここでは、設置、建立を示している。堂の物象本源は、このような屋面が両方向に坂になっている建築構造から来ている。プラットフォームの上に建てられた高大な建築をいう。この種のような建物と故宮の大殿と故宮の製造形式は完全に同じで、中国の木造建築の代表である。小篆の "堂" の文字、元々金文の中の一つ字体は、ただ下部の "立つ" は土に変化してしまっている。楷書はこの縁で "堂" と書く。 

土台基礎は商代各所の宫室の遺跡で発見されている。 

 《中山王墓の宮殿の図》:"王堂は四角形二百尺。" その中の "堂"は即ち王の殿堂をさす。"堂" は、また専ら下に土壇があり、台基がある高い宮殿の建物を指す。土台基礎は最初商代各所の宫室の遺跡で発見されている。 土台で高いものは二米から三米までに達している。

「堂」の使い方、使われ方(古代から、現代まで)

 古い時代、官庁で行う儀式、案件を裁判する時に言われる "退堂、大堂に上る"などこの類の台基を指していることに基づいている。《論語・先進》;"由、堂に上がるも、未だ入室せず。"仲由(孔子の学生 )が前足場を上がったけれど、しかし室の中に入っていないことを言っている。"堂" は家族あるいは一族の人々の正式な部屋で、尊者がいるところである。だから、この事から、同じ祖父の縁続き関係のものを、例えば "堂房、堂弟 "などという。

 現代の漢語中で、 "玄関 " は各種の活動が行われる大型の家屋をいう、例えば "公会堂、食堂、教室 ";またホールの名称あるいは商店の商号などにも用いてる。例えば "懐柔堂、同仁堂" など。

2012年8月4日土曜日

住まいの漢字 「尚」:起源と由来



 家屋の建築技術は更に発展し、屋根の形も「片流れ屋根」からさらに高級感のある切妻方式が現れる。この形式は殷商の邑では、多く使われ、大邑(いわば首都に当たるような大都市)では、大分普及していたようである。今日の北京などにもみられる、さらに家と家を組み合わせたパッケージ住宅「四合式住宅」が見られている。この形式は日本の京都などにも見られる、「町家」の建築様式にも受け継がれているようで興味深い。筆者が中国の殷の都のあった安陽という街の博物館にもこの手の建築様式のモデルが展示されていた。
  この「尚」という言葉は、原義は切妻屋根のことであるが、そこから派生して、「高貴な」という意味にも用いられる。日本でも「高尚」などと品のいいことの形容に良く聞く言葉である。

引用 「汉字密码」(P717, 唐汉,学林出版社)

"尚 " はもともと八の形をした屋根の付いた屋舎という意味

  "尚 shang"、これは会意兼形声文字である。"尚" の字の甲骨文と金文共に皆は上下の結びついた構造になっている : 下部は"同" で、 "屋舎" の形を示している、上部は"八 "に似ている記号で、両方を切り放す意味を示す。ここで、両形の会意で、これは一種の屋根が両方に落ちた家を示す(日本では切妻という)。小篆の "尚" は変化して、屋根の頂部の一点が竖線になっている。楷書は将に違いも違い、 "尚"となった。

"尚 " 屋根の形から、高貴なという意味が派生した 

 "尚 " はもともと両方に下がった屋根(日本では切妻式という:筆者注)がある方形の大部屋をさす。円形の家及び片方に落ちた屋根(日本では「片流れ屋根」という:筆者注)と比べ、造形上で"増加 "があり、一つのランク上の尊貴なものであるはずだ。だから、"尚 "は尊崇という意味も持ち、重視するの意味にもなる。"尊さ " 意味から引き出されて、 "尚" の字はまた高く攀の意味がある。特に古代の同じ王帝の女性の結婚のことを指す。《史記李斯列伝》の如く:"もろもろ男すべて秦王女を賜り、女性全部秦の諸公子に嫁ぐ。

 "また延用され官位も表した。例えば "尚書"の如し。

"尚 " はさらに派生語を生み、「未だ」の意味を持つ。時期尚早

 "尚 " は副詞を作る時に、 "未だ"に相当して、これは"もう一面の屋根"があるの意味からの延用されたもの。 この詞義は、現代の漢語の中で存続して、例えば "時期尚早、まだ一息命がある " など。

2012年8月2日木曜日

住まいの漢字:「宋」の起源と由来


 中華民族の先民たちは、人口が増え村落が発展すると、当然のこととして建築様式の発展が生まれる。
 
 紀元前4、5千年前の仰韶の時期には人々の家屋は前回見た浅穴式の家屋から抜けだし、さらに地上の上につき出し、四方に柱を建て、泥壁をもった、より快適で、より堅固な家屋が出現する。


 この仰韶時代は河南省仰韶遺跡や陝西省半遺跡の辺りに栄えた文化を言う。食物は畑作で、粟や黍が中心で、豚、犬、鶏を飼育し、陶器は彩陶土器で、素焼きの上に赤や黒で彩色したものを特徴とする。

引用 「汉字密码」(P716, 唐汉,学林出版社)

甲骨文、金文、小篆の「宋」

  甲骨文、金文、小篆及び楷書の "宋 song" の文字は、形体は似通って、同じ流れを汲んでいる。上は "内 " 、下に "木 " と、明らかに内と木からなる会意文字である。




"宋 ": 蒙古のパオを思い出す

  実際に、これは上古の先人民達が木を梁柱にして、架設した地上形の居室である。このような家屋は六千年前に仰韶の時期に既に現われている :家屋を高く地面に出し、柱によって屋根を支える、四周は杭で支え、泥で塗った壁だ。このような木柱によって屋根を支える方式は容易に人々に蒙古のパオを思い出させる。

松の木は先民達の第一選択肢 

  屋根を支えるの木柱には直木を当てる、切り口は荒く、虫が出てこなくて、伐採して使用するのが容易である。黄河の流域では、松の木は先民達の第一選択肢である。実際に、宋と松は同じ音であるから :林では "松 "といい、室についての時は "宋 "という。これも商民族が松木を神木と見なした縁由の一つだ。



現代の漢語の中では、原義は失われ国名に常用されている 

  中夏民族の居室建築の発展に従って、"宋 " の文字の本義もう消えてなくなっている。現代の漢語の中で、 "宋 " は国名に常用され、王朝名、氏名にも使われている。又漢字の字体を指すようにもなっている、即ち宋体あるいは宋の字体を模した字体を指す。

2012年8月1日水曜日

住まいの漢字 「宅」の起源と由来



「漢字は生活の反映だ」はこのサイトの基本的な概念だ。
それを最もよく現わしているものの一つに、住まいに関する漢字の起源と変化である。1万年前ごろは、氷河期も終わりになり、人間はまだ穴の中に住んでいた。この穴は自然発生的には崖の淵に出来た洞穴だったろう。このことは、日本でも、鍾乳洞に古代人が棲息し、生活を営んでいた土器や矢じりなどが発見されることでも明らかであろう。
 そこで生活する期間が過ぎると、人間は平地に出て群れをなし部落を構成するようになる。初めのうちは非常に原始的な住まいで地面に穴を掘り、穴の上には覆いをかぶせて、雨露をしのいだ時期が長く続いたであろう。
 そして7,8千年前ぐらいになると、その穴も次第に浅くなり、いわゆる住居として外見も整っていくようになる。ここで取り上げる漢字はいわば今日日本の遺跡でも見られる「竪穴式住居」と言われる住居を表現した「宅」という漢字である。


引用 「汉字密码」(P716, 唐汉,学林出版社)

穴から出て新しい建物「宅」への飛躍

 ”宅のzhai”は、元来1個の指事字である。甲骨文の”宅”の字は、まさに屋内に柱を立てることで、即ち”はらい”を1本を増やして、覆い屋根を建てた家を強調している。上古時期は、人々は穴を掘ったのち、最も重要なのは穴中央に柱を立てて、屋根を造ったことである。

「宅」は建築過程の直観的なデッサン

 ”宅”はちょうどこの浅い穴式の建築過程の直観的なデッサンである。金文の”宅”の字は、指示符号の一つのはらいが、いわば横になっていて、建てた橋の梁木の格好になっている、概ねこの時期の建築が既に地面建築に発展し、柱梁一体化になったためである。小篆の”宅”の字はいわば形声字に変化している。《説文》それゆえ”宅“を解釈して、人の居也。ウ冠と発声を表す屯(zhe)からなっている。”楷書”は小篆を受けて、従って”宅”と書く。

「宅」の字の発展過程

 ”宅”の字の発展過程は、華夏民族の建築の様式の発展による。”宅”字に対した分析は、我が国古代の木造建築の源ともいえる。これから、どのように産着の時代から一歩一歩、最終の大きな気勢を体現し、周密な建築構造体系を実現したかを見ることが出来る

 ”宅”は古代に元来”造営”の意味であった。それが後で”名詞化“し、”住所”の意味に取って代わった。現代の漢語中の”家屋敷、住宅、大邸宅”は、全部ここから拡張されたものだ。

2012年7月30日月曜日

先人たちは穴から出てきた 「穴」の起源と由来


  穴は本来動物の巣穴のことをいう。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」とか「穴があったら入りたい」と我々の生活の中でも、交わされることである。もっとも最近はこのようなリスクを負う場面が少なくなって、人々はあまりこう言ったことを処理をするのに慣れていないので、どうしていいかわからない。だから警察等の公権力を頼りにしがちである。この事は社会が発展したともいえるが、別の見方をすれば、人間の退歩である。社会がきちんと機能しているうちはまだいいが、最近では本当に機能しているのかと疑う場面に遭遇する。これからますます複雑になる社会の中で「自分の命を自分で守る」ために、リスクに対応する能力の開発も必要になってくるだろう。
引用 「汉字密码」(P714, 唐汉,学林出版社)

"穴"は 上古先民住んでいた洞穴のデッサン画像

 "穴xu" は、これは一つの象形文字である。甲骨文の "穴" 文字は "天子" の中の"丙" の文字との同じ源で、上古先民が住んでいた洞穴デッサン画像だ。約 7000 ~ 10000 年の間の有史以前、黄河中下流地方の先民は、一種の袋状の穴居室を使っていた。いわゆる  "土の穴" である。

"穴"文字の本義は "土の穴" だ。

 このような口小さい腹の大きい穴によって土を掘ってつくる、屋根だけはあり、壁体がなく、その縦断面は"内"形だ。甲、金文の"穴"文字は相当このような土室に似ている。小篆の"穴"文字は金文を受けて、その上に一点を添加して、穴の脊椎屋根の出現を表している。楷書は小篆を受けて、点画の間を分けて"穴" と書く。 "穴"文字の本義は "土の穴" だ。

 《易•系辞下》にある如く"穴居而野处。"この中の "穴 "は即ち地穴のことで、穴洞の意味である。 また拡張して、墓を掘る、墓穴(埋葬する死人の穴)のこと。《歌•王风•大车》:の如く、"死则同穴。"とは、死後は一緒に埋葬するということ。「穴」の字は部首字である。およそ穴の字が構成されている字は皆家屋や洞穴に関係がある。害、巣窟、窓、孔など。

2012年7月28日土曜日

古人の主食:粟、米、麦、稷、豆 総称の「禾」の起源、由来


中国は東アジアの文明の中心である。

  世界農業の主要な発祥の地である。考古学者は今から7、8千年前の多くの遺跡中に粟、黍、稲等の穀物の遺物を発見し、また多くの簡単ではあるが十分実用的な生産工具や食料を加工する各種器具を発見した。
  中国は東アジアの文明の中心である。また世界農業の主要な発祥の地である。考古学者は今から7、8千年前の多くの遺跡中に粟、黍、稲等の穀物の遺物を発見し、また多くの簡単ではあるが十分実用的な生産工具や食料を加工する各種器具を発見した。この歴史的遺物は、有史以前に農耕文明が燦然と輝いている存在であることを示している。

引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

「禾」は五穀(米、麦、粟、稷、豆)の総称
「禾」は五穀(米、麦、粟、稷、豆)の総称

  漢字が甲骨文から金文に至るまで一つの例外もなく、歴史的証左で、一字一字農耕文明の残した暗号が数多くあり、農業技術の一歩一歩の推進を示している。また、同時に華夏民族の農業の文明の歴史過程を反映したものであることが分かる。 

主食は北方では稷、粟類、南方では米と考えられる

  その頃は主食は北方の地域では、稷(きび)や粟であったろう。これらの作物は乾燥に強く、干上がることの多かった黄河流域の比較的北方の地域ではよく作付されていたであろう。ところが南方即ち長江流域では既に米の栽培がなされており、水田も多く広がっていたと考えられる。それぞれが植えられ始めた時期はそれほど違ってはいないだろうと考えられている。


古代人の主食は「禾」

 禾という字の甲骨文字、金文は皆熟した穀物の様である。下部は根、中部は葉、上部は一方に垂れた穀物の穂である。古文の字を作った意味は見て分かるように、穀物で、まさに完全な形状をなしていて、本義は穀物を表す。 説文によると、禾を解釈して、よく実った穀物のこと。二月に生え始め、8月に熟し、時を得るうち、これ禾というなりとある。


「禾」は五穀の総称


   ここで禾は実際は粟のことを言い、粟を脱穀したものをいい、これが北方地方では古代では主食であった。これは猫じゃらしが穀物として成功したものだ。中国東北地方の旱作農業地域では主要な糧食であった。

  こうして何千年のうちに、農耕技術も発達し、貧富の差が生まれ、村が邑となり、大きな邑連合が形成され、都市国家を形成するようになり、殷商の時代に突入して行く。 
殷商の時代には広くいきわたり、産量が最大の糧食作物になっていた。秦の時代には禾は穀物を指し、もっぱら粟のことを指していた。 


2012年7月27日金曜日

裳はスカート:「裳」の語源と由来



衣裳の「裳」はもともと「常」と書いていた。「常」の字から派生字の「裳」が出来たその秘密に迫る。そんな大層な問題ではないが・・。
衣裳の「裳」はもともとは「常」と書いていた。
「裳」は「常」の派生字である
引用 「汉字密码」(P697, 唐汉,学林出版社)


 「常」は会意文字。「尚」+「巾」

 「常」は会意文字である。原義は下衣のことである。即ち人が下半身に身につけるスカートのことである。金文の「常」の字は上部は「尚」で、元々は古代の家の屋根で両方に勾配が付いている家を指す。下部は「巾」の字で布を指す。両形の会意で、スカートの前と後ろを隠して遮蔽している様をよく現わしている。小篆の「常」の字は金文を受け継いで、基本形は同じである。「尚」の字はまた発声を表示することから、巾と尚の発声で、形声字にもなっている。楷書ではこの事から「常」と書く。 

 新しい意味の派生

 古人はすでに羞恥心が備わっていたことから見て、夏の炎天下で上着は脱ぎ捨てることはあっても。下着は脱ぐわけにはいかなかっただろう。この為に「常」の字から恒久とか常時という意味が引き出された。

 『苟子•荣辱』の「仁义德行,常安之术也」 仁義徳行は常に安らかなる為の術であるという意味。

 「常」は「裳」に庇を貸して母屋を取られた格好

 常の字は引き出された意味専用になり、古人は「裳」の字を作り、専ら下半身のスカートを指すようになった。これは、常の字の下の「巾」が「衣」に変化し、派生字を作り出した。衣と裳を同時に上げた時、衣は上着、裳は下着(スカート)をさす。

2012年7月25日水曜日

衣裳の衣は上着のこと、裳はスカートのこと

 「衣食足りて礼節を知る」ということわざがある。しかし最近のいじめの問題を考えてみると、「衣食足りているはず」のいいところの子弟が加害者になって平然としている。「衣食足りて・・」という命題はほんとうに正しいのか自信がなくなってくる。マスコミは学校が悪い、教育委員会が悪いと激しく責め立てる。悪いのは事実である。しかし、物事の背景には、家庭教育の欠如があるような気がしてならない。特に幼児、児童教育がわるいのでは。大きくなってからあれこれ言っても、はっきり言って遅い。これは自分自身の実感だ。


引用 「汉字密码」(P696 唐汉,学林出版社)

  「衣」は象形文字である。甲骨文字、金文、小篆の字形は基本的に同じである。その上部は人の字形で、着物の首の部分を表している。両側の開口部は袖で、下部は襟である。即ち古代の左前、右前である。楷書の形体は隷書化の過程で、字形が美観を志向し、但し象形の味わいは失われている。既に衣服の様子はない。

  東方未だ明るくない。衣服の上下を間違えた。これは《詩・斉風・東方未明》の中の2句詩东方未明,颠倒衣常(同裳)である。これは天がまだ明るくない時に起床した慌てて上下の衣服を履き違えたということである。現在は衣裳は一つの言葉であるが、古代は2つの言葉であった。説文は上は衣、下は「裳」と解釈している。「衣」の本義は上着を指す。《詩・却風・緑衣》にある如く、「绿衣黄常(同裳)」このことは緑色の上着に黄色のスカートという意味である。

 「衣」の字は上着から拡張され、衣服の総称になった。《詩・函風・七月》:着るものも食うものもない。服装と食品は人々と切り離せないものである。この為人々は衣食を与える人を称して「衣食父母」という。衣服は体の外に付けるもの。いわゆる、衣の字は物体の表面を覆う層のものを指すのに拡張された。書衣、落花生の衣、地衣、糖衣などなど。その中の衣は事物の外の表皮を指す。
  日本では、男は左前、女は右前と決っていて、これは、男が女の胸に手を入れやすくするための決めごとと聞いていたが、あんまり関係はなかったみたいだ。それよりも男は武器を手にする必要から、右手を懐にすんなり出し入れするには左前しかない。これは古代からずっと続いてきたことなのかもしれない。
 因みに中国でも男の服は左前と決っているようである。また人民服は男女にかかわらず左前、現在でも軍服は左前のようだ。但し見栄えを重んじる儀礼服は女性は右前になっているようだ。
 日本の自衛隊については、戦闘服は分からないが、行進の時の制服は男は左前、女性は右前となっているようである。
 想像するに戦闘服は男女の右左の区別はないのではと思っている。


中国网より























2012年7月24日火曜日

「宴」:漢字の起源と由来


「宴」の語感

「春高楼の花の宴 めぐる盃影さして」と詠われた、春の宴は我々日本人にはうつくしい響きを以て、ある種の心地よさをもたらしてくれる。これは土井晩翠作詞と滝廉太郎作曲によるものだ。

  しかし、このような美しい情景を思い浮かべる「宴」も、その言葉の原義は、もっと生々しい、人間のエゴと欲望の渦巻く舞台であった。

「宴」の漢字の発展

引用 「汉字密码」(下巻P744 唐汉,学林出版社)

「宴」これは会意文字である。金文の宴の字は外側は屋舎のかたちで、中の下には「女」で、上部には「日」で、女とのセックスを表している。小篆は金文を受け継ぎ、「日」が女の上になっている。楷書では「宴」と書く。
  ここで「日」という字は、セックスを表しているというが、またもや唐漢さんの独特の発想かと思いきや、「中日大辞典」では、「罵り言葉として男から言う「日」には性交する」という意味も含まれるというから、まんざらとび跳ねたものではなく、それなりに巷ではこのような使われ方をしていたのかも知れない。

「宴」の本義は女の人で客人の接待をすること

引用続き

 「宴」の本義は女の人で客を接待することである。「宴新婚の兄弟の如し」ということは「上古時代の族外婚の時は兄弟同様一人の女性を共用する。「宴」は古代にあってはまた部屋の意味を表す。《易·随卦》の"君子以向晦入宴息。"の「宴息」は「夜になると屋内に入って休息する」という意味である。実際今日では、この行為は極端に野蛮で淫蕩な行為と見られているが、上古時代から女の俘虜はみんなの共用で、且つ客人の接待に使っていたのは一種の習俗であった。

 春秋戦国時代に至ると、諸侯、貴族、大商人は例外なく女を養うことで以て栄えたことのアイデンティティーとし、幼い子供、美しい妾で部屋を満たし、楽団や芸子を家の奥深く侍らせた。


 この種の女性は、単に高官、貴人に留まらず性欲のはけ口になった。また彼らは客人の接待に用いる一種の用品であった。
現代漢語の中で、宴は宴会、酒宴、宴席に招くなど多用されている。


壁画に見る宴会の様子

  この様子は昔殷の国の大きな邑があった云わば都であるが、今の中国の安陽という街の「安陽博物館」に飾られていた大きな壁画にも見ることが出来る。これは後世のものだろうが、当時(殷朝の時代)の宴のありようを表していると思う。
 この絵の左側は宴の出席者で、主催者と客人が飲み食いしている様子が見て取れる。右側には粗末な服を着た女人たちが踊っている。これが、恐らく奴婢、奴隷で、この宴で客人たちに体で接待を強要された者たちであろう。
 この時期は日本は縄文時代の末期であるが、中国では既に殷朝という大都市国家が出来、地域的ではあるが、権力の集中がみられている。建屋も立派な大きな宮殿が作られている。
 また女たちの着ている衣服にせよ、貫頭衣の様な未熟なものではなく、粗末ではあっても、それなりの縫製されたものと見受けられる。またこの王宮跡にはとてつもなく大きな青銅器の鋳型が作られていた。

2012年7月18日水曜日

麦は太古から貴重な穀物


麦の歴史は非常に古く、比較的寒冷地でも、乾燥地でもよく育つことから、西アジア・西域の地で栽培されていたものが中国に伝わったのではないかといわれている。昔から安定的に収穫できる作物として、重宝されている。

当時の食生活は、庶民は粟飯、貴族は黍飯その他麦、米などが食膳に上っていたようだ。
調味料としては、6,7千年前には既に、醤、酢、酒が開発され、今から3,4千年前には調理法も
煮る、焼く、炒る、煎じる、蒸すなど多岐に渡り、基本形は確立され、既に現在と殆ど変わらないような調理がされていたものと思われる。もちろん冷凍マグロなんてのはなかっただろうが・・・。チーズなどはあったのだろうか?興味は尽きない。


引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社, P214)


 「麦」これは小麦の専称とである。また麦類の作物の総称でもある。甲骨文字の麦の字は会意文字である。上辺は麦の株を植えるデッサン(来)で、下辺は足をひっくり返した形である。金文と小篆の「麦」は甲骨を受け継いで、麥と書く。漢字の簡単化から「麦」と書かれる。

 ある人は「来」の下に一つの足を増やしたことは、春に小麦は芽を出すとき、農民は足で踏みつけ麦の苗を押し付け踏みつけることからこれを表したものだ。 この種の情景は近代の農村にあってもまだ尚見ることができ、しかし、3300年前は分からない。先人はまだこの小麦の習性を理解できていなかったこともありうる。

 「麦」 は農業文明中非常に重要な位置を占めている。《礼記・月令》の中で言うには、「麦」は断絶と継続の乏しい穀物だ。即ち「いつも秋になってまだ作物が成熟していない時に、麦が収穫でき、まさにこれは絶えて何もかも乏しいときでも、続けて収穫できる。「本草図経」で、麦は五穀の中で貴重だ。周人が殷商を滅ぼしたもの、秦が六国を平定したものその強大な物質的(主要には食料)基礎があり、麦に関係があるに違いないといっている。

 司馬遷は「史記」のなかで麦の故事として触れている。殷商が周によって滅ぼされた後、箕子が周の王都镐京に行きたくなった、殷商の古都を通過したとき、昔の豪華な宮殿が既に荒れて田地になっており、感極まった。一首「麦秀歌」を作った。「麦は次第に芽を出し花が咲く。黍は悠々とゆったりとしている。あの軽薄な子供。われ好まず。この歌の中では箕子は「軽薄な子」で以って、暗に殷の纣王を批判し、纣王が彼を信任して重用しなかったことを述べている。国敗れて人はなく、都は沈んで麦畑になった。殷の人はこの歌を聞き、しばし涙が流れて止まらずいつまでも嘆き悲しんだ。

2012年7月12日木曜日

「黍」酒の原料:漢字の起源と由来


「黍」と「稷}

おなじキビでも漢字に書くと「黍」と「稷」。 「漢字源」によると、


  • 「黍」:穀物の名。実は赤、白、黄、黒など数種類ある。北中国では主食にし、飯、粥を作り、酒を醸すのに用いられた。香りと粘りがある。
  • 「稷」:イネ科の一年草。弥生時代に中国から伝来した。茎の高さは1m内外。葉は長く広線形。糯と粳の2種類ある。穀物の長と言われる。


黄酒と白酒

  この黍を原料とした酒に「黄酒」があり、一方高粱を原料とした酒に「白酒」がある。この白酒はアルコール度50、60%というのが一般的だ。飲み方は日本の焼酎の様にお湯割り、水わりと言うのはなく、原酒でかぱかぱ飲むのが常識である。日本流に考えて、「お湯割り頂戴!」なんて言うものなら、馬鹿にされるので、言わない方がいい。自信なければ、初めから「飲めません」と断るのがいい。中途半端な飲み方は、人間も中途半端と思われるのがおちだ。

  日本語では同じ読みの「きび」でも、甲骨文字では全く異なった形をしている。このことは、中国古代では両者は異なる使い方をされていたのではなかったろうか。

引用 「汉字密码」(P212, 唐汉,学林出版社)

  「黍」は季子ともいう。皮を取り去った後は、大黄米ともいう。現在では陕西、山西省の北部、内蒙古の少数の旱魃、高地、寒冷地を除きこの種の糧食作物を植えることは少なくなっている。しかし、黍は上古の時代は十分その地位は顕著であった。黍米は粟と比べ粒が大きくその色は黄色で、成熟した後一筋の香りもある。貴族だけが常食してた。平民は粟飯を食べていた。

黍
  甲骨文字の「黍」は上部は稷の穂が分かれ、斜め下に垂れている状態を言う。下部は根で右辺は水を表す。小篆の黍の字形が変化し、禾と雨の。説文は「黍」を解釈して、禾に属する粒もの也。 黍は酒にもなり、水の入った穀物。また黍の字の構成中水があり、黍が水をよく吸収することを示している。右の画像は黍の穂である。(ウィキペディアより)

黍と酒

  酒の重要性は食物にも似ていた。古人は飲む酒も酒粕も正に一切食用であった。甲骨卜辞の中に常に出現する一種の酒即ち鬯(古代の酒、黒キビを原料とし鬱金草を混ぜてかもした匂い酒)は香草と黍を合わせて醸した匂い酒である。古人は黍で匂い酒を造った。黍を脱穀後一旦蒸して色が済んだ色になると一種の心や臓腑にしみる香気をもつ。黍を用いて造った酒は広軌が黍飯に比べ、濃厚で人を酔わせる。この為この種の酒は常々個人が祖先の神霊にお供えするために作るものだった。

黍と香り

  黍は無論飯も作りまた酒も作る。皆香りと味はよく、個人は香りという字を作る時黍と甘いという字を組み合わせた。

「黍」は「香」の字の原字

  以降黍の音を簡略化し禾とし、ついに「香」という現在の字が出来た。  黍を蒸す時一種の粘りがある。北方の農村ではいつも正月にはこの大黄米を使って、餅や粽を作り親戚や友人を接待した。この為、「胶」と「黏」の字を表示して、「占」の音で、麦飯の粘りの意味を表す。